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蘇れ・高橋忠史・天神の空の下ライブ [サポートクラブ日記]

2016年3月27日行われた、高橋忠史ライブは、忠史さんが住んでいる地域の団地の集会所で行われました。自治会役員仲間の強力なバックアップで、満席で成功!
忠史さんが作った新曲、「天神の空の下」を力一杯歌った後、忠史さんはこれ以上無理・・。と、体調悪化で予定より30分早くライブ終了。そのまま、横になりたいと、所かまわず、舞台で横になりました。まさに、命がけのライブ・・。

天神の空の下・・写真.JPG
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岡崎・八曜舎・高橋忠史アカペラライブに行ってきました。 [サポートクラブ日記]

八曜舎.jpg
普段は土日働くシフトで仕事ですが、6~7日と連休をもらえたので心はライブ!
岡崎へ行くしかない!と・・。
忠史さんが予約した、同じホテルに宿泊予約し、交通費を安く済ませるために、朝、8時頃の電車に乗り、在来線の旅!最寄りの大門駅で岡崎までのJR切符を往復購入。
ローカルな山や川など、景色を見ながらの列車旅も悪くない。ローカル線の旅は、思いのほか慌ただしい乗り換えに緊張感があります。乗り換え2~3分など、ホームと電車を確認してすぐ乗り込むので、トイレ休憩や弁当はどうするかなど・・うっかりすると電車内の販売が無い分、食べ損ねることも・・。行きの米原駅の乗り換え通路でたまたまお弁当を売っていたのをゲット!
大垣・姫路経由で、快速電車に乗り換えておよそ8時間。岡崎駅に着き、目的地の東岡崎にはバス!に乗ろうと思ったが、トイレに行った時間がロスとなり、1本出たばかり・・。時間も少しあったので、歩いてみようと・・歩き始めたが、思ったより距離があり、やっぱり途中でバスに乗って東岡崎へ!
予約した宿には、予定時刻の4時ちょっと過ぎに着き、ホテルにある大浴場の女性の利用時間が、4時から6時だけと決まっていたので、まずはひとっ風呂!
出かける用意を済ませてから、、そういえば八曜舎に予約したが、留守で電話に出なくて、もう一度確認しようと八曜舎へ電話を入れ、忠史さんが6時ごろ現地に入る事を確認しました。
ホテルに着いたら寝ているだろう忠史さんには、あとから電話をして、出かける時間を合わせました。ロビーに降りたら、福井の政野さんも忠史さんが降りてくるのを待っていました。政野さんも私の事をすぐわかり、美浜ライブ以来の再会でした。
3人で八曜舎へ向かい、個性的なマスターが迎えてくださいました。
八曜舎という名前は、京都にある六曜社という喫茶店の名前をまねたらしい。
ライブの参加者を記録するノートに名前や住所を書き、住所や名前の読み方をひらがなで書き加えてから、何度も何度も読み方を確認するマスター。どうやらそうしないと納得しない性分らしい。
八曜舎の2Fが予定のライブ会場でしたが、足の不自由になった忠史さんにはとても上がれそうも無い梯子階段。お客様の福井の政野さんは91歳の足の悪いお母さまを連れての参加。ということで、2Fでやるつもりのマスターでしたが、急きょ忠史さんからお願いして1Fのスペースでやることに!
2Fには、古いPA機材などあるそうですが、忠史さんの話によると、1FでPA無しの方が2Fでやるよりはるかに音も雰囲気も良いと!
巷の噂によると、2Fは笑える位汚いらしい。
1Fのスペースはカウンターが厨房を区切り、レトロな作りの縦長の狭いスペースで、歴代のライブしたアーティストらの色紙が壁一面に隙間なく貼ってあり、忠史さんの色紙も見つけました。
喫茶店なら何か食べ物かコーヒーかあるのかと思いきや、缶ビールのみ。ビールがいらない人は300円をチャージとの事でした。お店のマスターもしっかり聞く体制。
ライブ前の腹ごしらえのため、近くのコンビニまで買い物に行き、食料調達。
忠史さんは、買って来たおにぎりを食べたら少し落ち着き、元気を取り戻したようで・・。聞けば、案の定、朝から何も食べずに移動して来ている忠史さんでした。
元気がないのは、病気のせいじゃなく、エネルギー不足?!
障害のある身体になり、移動してくるだけで精いっぱいなんだと思います。
ほぼ3食欠かさず食べる私には、考えられない事です。
ギリギリの時間になって、現地の常連のライブのお客様が入ってきました。八曜舎からのライブの案内は昨日届いたと!それでも急きょ駆けつけてくれた常連さんでした。
高橋忠史・アカペラライブ!去年まで、ウクレレを音とり用に使っていましたが、今回は持参せず!もうウクレレさえ弾けないのだと!・・。
体調は決して万全ではないものの、唄い始めたら「高橋忠史」!
命がけの魂のこもったライブ。久しぶりの生声。生歌。生忠史!
身体はキツイようですが、唄っているうちに身体も暖まってくるのか、表情もいきいきしてくる。やっぱり、唄っている時の忠史さんは、一番イキイキしていると思います。難病になったけれど、精一杯生きている生きざまを見てもらい、魂の叫びを感じてもらうライブ。
最近は慌てると飲み物を誤嚥することがあるそうで、以前より、少し鼻にかかったような声で、話し方がゆっくりになった気がします。
本人はとても話しがしずらいようですが、特に聞きずらい事はなく、唄うとなると、しっかり発音しようとするプロ根性なのか、歌う時の方がおしゃべりしている時よりも、言葉は聞きやすいです。アカペラライブ。まだまだやれる!
ライブだけを見ればそう感じるライブでした。
忠史さんはプロのアーティストですから、来た人を満足させられるだけのライブを当然のようにやってのけるが、それは命がけのライブであることには変わりはないのです。
体調には波があるようで、調子の良い時も悪い時もあり、バランスが取りにくい状態での身体の移動に体力をかなり消耗するようです。
障がい者としての忠史さんは、確実に病気が進行して、障害の度合いも進んでいます。
ホテルへの帰り道、一緒にコンビニで買い物をしましたが、まず、右に杖を突いて買い物かごを不自由な左手で持つとバランスを崩しやすいのでかごを持てない。さらに、指先で物をつまむ行為がしにくいので、私がかごを持ち、忠史さんが指さす品物を私がとってかごに入れ、レジまで持って行きました。こういう何気ない普通の生活の動作が大変になっているようです。
階段3段位入口にあったが、端にある手すりのある所まで移動して、ゆっくり手すりを伝わり昇り降りをする。また、杖を突いて歩く時は、手を引いたりせず、決して触らず、本人がバランスをとっているのを邪魔しないように見守る方がいいようです。
今はふらつきながらも、杖をつきながらゆっくりですが、かろうじて一人で歩けています。
ホテルの部屋は、訳ありの安い部屋。資金を節約したい考えは、忠史さんも私も同じ考えのようで、二人とも同じ狭い作りのタイプの訳ありシングル部屋でした。
手すりの無い大浴場は忠史さんには無理でしたが、部屋のお風呂は狭かったのが幸いして、手すりが無くても一人でも何とか湯船につかり、暖まる事が出来たようです。
帰りは、忠史さんが豊橋まで出ると聞き、私もあわせて豊橋から帰る事にしました。
名鉄線で豊橋まで出て、切符を買ってから、一緒にコーヒーブレイク。
セルフサービスは障がい者には向かないですね。片手でコーヒーの入ったコップをのせてお盆を席まで持って歩くのは難しい。。そんな事を思いながら、20分ほど会話してから、私は東海道線へ。忠史さんは、新幹線でしたので、乗り換え通路でお別れ。
私は、切符を岡崎往復で買っていたので、豊橋から岡崎分をSuica利用し、いったん改札を出て、トイレ休憩と、簡単なお土産を購入してから再び改札へ!
戻りの在来線旅では、乗り継ぎ良すぎて弁当は買えず。
姫路で再びトイレ休憩して、おにぎりを買ったのは3時頃。相生で直通の山陽本線が待っていたので、6時頃には最寄りの大門駅に着きました。
忠史さんに会うたびに、障害の度合いが進み、不自由さと闘っている忠史さんを目の当たりに見ると、本当に元気だった、つい2~3年前の事が凄い昔の事のように思えます。
たった2~3年でこんなに不自由になるのかと、、病気の恐ろしさをまざまざと見せつけられます。
アカペラライブ!まだまだ可能ですよ。今なら歌えます。語れます!。。ライブ出来ます!忠史さん本人も命削ってでも歌いたいと思っているようです。
今は、何とか一人でも移動可能ですが、数か月後にもっと大変になるかもしれません。
脊髄小脳変性症は、小脳の委縮により、日に日に運動神経伝達機能が破壊され、いずれ歩けなくなり、唄えなくなり、喋れなくなり寝たきりになると言われている進行性難病です。
いつまで歌えるかなんて誰もわかりません。
忠史さんが出かけるのは命がけです。
今後、誰か家まで送り迎えも必要になるかもしれません。どんなに病気が進行しても、忠史さんがシンガーソングライターとしての活動を続ける限り、応援も続けます。













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縁は縁を呼び、「花は咲けども」の歌が縁で、40年アマチュア歌手活動の影法師と、40年プロ歌手生活の高橋忠史が繋がり、繋がった縁は、双方と関わりのある大昌寺のご住職が知る事となり、そして、すべての縁が浜松に集結した。 [サポートクラブ日記]

影法師ツアー.jpg
11/16浜松での大昌寺・影法師ライブが決定。大昌寺のご住職が影法師をご存知で「花は咲けども」の曲をYouTubeにアップしていた縁と、1000日ライブの時から何度もライブでお世話になった縁もあり、浜松のゲストは高橋忠史さんと決定。
元々のきっかけを作った私にもぼちぼちのママさんから参加するようお誘いがありました。
ぼちぼちのママさんとは、山中恵美子さん。忠史さんが浜松でお世話になった方の中でも、私に紹介したいと言われていた人でした。
忠史さんが私に、逢わせたいと言ってくれるのは、とても珍しいことでした。浜松から歩き旅をする際にお店に尋ねて行き、その時、たまたま留守で会えず、次の機会の時に、どうしても会ってみたくなり、忠史さん不在でも、一人で呑み処・ぼちぼちへ会いに行きました。
山中さんは、ガン闘病中で何度も手術しながらも生き続けている闘病ママさん。
かつて、リサイクルや環境問題に関わる運動に携わっていたそうですが、人に会うのが好きで、呑み屋を続け、今は、抗がん剤もやめているのだという。
笑顔の素敵なパワフルな感じさえ受ける、がん闘病者とは思えない、素敵な酔っ払いママさん。
1000日ライブだけでなく、浜松駅からお店も近いので、忠史さん何度もお世話になったようです。
私は、田舎暮らしとは言え、パート収入だけで資金不足なので、福山から浜松まで新幹線を利用せず、出来るだけ遠くまで行く高速バスを利用して行くことに・・。
病気で障がい者の忠史さんが各駅を使って移動しているのに、、健常者の私も見習って節約、セツヤク・・。岡山の倉敷から名古屋まで深夜バスで行き、そこからは東海道線!時間はかかるが安く済む。浜松までスイカ利用で行ったが、改札で引っかかった。どうやら、各駅で行くには、西日本、東海と・・エリアごとに切符を買わねばならなかったようで・・。スイカで乗り換えは通って行けるが、改札出口でスイカでは出れず、駅員さんの所で再精算!
夜行バスで朝6時頃に名古屋で、東海道線で9時過ぎには浜松に着き、時間がたっぷりあったので日帰り温泉や、浜松の楽器博物館など、観光をしてから現地へ!
着いたら連絡して!と、山中さんから言われていたが、お迎えは無理そうなので、観光案内のところで路線バスのルートを聞き、ライブ会場へバスで向かいました。実は方向音痴な私だが、スマホやタブレットの地図の道案内で何とか迷子にはならずに知らない場所でも行けるのです。
大昌寺には、ライブのポスターが貼ってありました。
現地に着いたら、影法師の皆さんがライブの準備中で、音響の方々やご住職もいらして、まだ着いていないが、、高橋忠史さんは、どうなんだ!と・・。忠史さんの状況を聞かれ・・
各駅で来る事を聞いていて、、疲れて来るので、すぐにでも寝かせられるよう、布団を用意していてほしいと、連絡があったとの話で、、。
忠史さんとは方向違いで、別々に来た私だが、、岡山でも同じような状況でライブしたのでおおよそ想像出来る。。各駅での移動で、とにかく、移動だけで疲れて来るので、まずは体を休めたいと・・寝たいと言うでしょう。
リハーサルは、時間が無ければ出来なかったらなくてもいいが、ろれつがまわりにくいので声だしはしたいかもしれない。。体調的にはいい時があまりないのです。歩いて移動するだけでかなり体力を使うので疲れて到着して、まずは休んで少しでも疲れをとる、、ライブになればちょっと元気になるかも・・。
そんな説明をしました。
忠史さんが休んでいる時間を利用して、観光ドライブに連れて行ってくれると、、。
忠史さんの介護担当、付き添いで来た、高橋直人さんと一緒に、稲鶴さんが車を出してくれたので、中島田砂丘など連れて行ってもらいました。
お寺に戻ると、檀家さんの方々が、懐中電灯をもって外で駐車場案内をして下さっていました。
中では、忠史さんがリハーサルで唄い始めていました。
歌を聴きながら、前もって預かった販売用CDなどを並べて準備して・・。
開場の時間になるとお客さんが続々と入って来て、後ろが詰まりだしたので、前の方へ詰めるよう場内整理がされ、、いつのまにやら開演時間には、入りきらないほどのお客さん・・。
ライブは満員御礼!立ち見だ~!最終的には100名を超えるお客さんで溢れました。
前日の新聞記事掲載の告知効果もあるのだろう。
忠史さん難病闘病中の知らせと、影法師とのいきさつの詳しく書かれた記事は、忠史さんが1000日ライブでお世話になった人達を動かしたようです。
忠史さんの歌を生で聞けるのはこれが最後になるかも??
そう伝えられて誘われて来た人もいるだろう。
1000日ライブの時は、ライブ場所に困ると、呑み処・ぼちぼちへ行ったり、ぼちぼちのママさんが紹介した関係だという、大昌寺へ行って何度もライブさせていただいたのだと、、ぼちぼちのママさん・山中さんから後で伺いました。
過去、忠史さんのライブに何度も駆けつけて来てくれた人たちが、1000日ライブ以来の再会。。忠史さんが会場の後ろへ居るのを見つけると、挨拶しに来る人が後を絶たない。。
ライブの最初は、大昌寺の娘さんのキワ子さん。
打楽器(スチールバン)のプロアーティスト・・。
癒しの音楽。綺麗な音・・。「涙そうそう」まで、確かに癒しの音楽でした。
最後に震災地で元気を与えたという「世界に一つだけの花」は、PAからの音楽の印象が強くて、スチールバンが影を潜めた感じで、、賑やかな曲も出来る事を見せたかったのでしょうが、やらなくてもよかった気がしたのは私だけでしょうか。。
いよいよ忠史さんの出番!
体調は休んでもあまり良くはならないようで、、後ろから前へ出て行くのもやっと・・
ご住職の肩を借りて、前へ出て行き、紹介の際に、難病で闘病しながらも歌い続けていることを改めて紹介されました。
ライブ本番のスイッチが入った忠史さんは、ライブで喋り始め歌い始めると、それまで口ごもったような話し方だったのに、歌詞を大事に伝えようとするせいか、歌うと割と聞き取りやすい。
体調が悪いとは言いつつ、長年のライブ経験からの集中力と、魂のこもった命懸けのライブは、お客さんをも集中させました。そうそう!この声!忠史さんの迫力のある声は健在!
このところ、アカペラライブで歌ってきた歌を歌い、病気になって感じた話をしながら、歌い続けて「花は咲けども」は、ギターも出来なくなったので歌いませんでした。もしかしたら・・と・・以前録音した「花は咲けども」のカラオケバージョンもあるので、念のため持参したのですが、、忠史さんは、ガン!としてやらない、必要ないと・・「音楽は生じゃないと伝わらないから!」という拘りからでした。
最初のスチールバンのパソコンからの伴奏音源を使ったライブを聴いていて、忠史さんが言った意味がよくわかった気がしました。カラオケは出さない事にして正解。
この日の忠史さんは、どうにも体調が良くならない。
ライブも終盤「ワッハッハ」と「銀の雪」を歌い終えた所で、、胸が苦しい?急に汗が出て、気持ちが悪くなったと・・この日あと一曲歌うはずの曲をやらず、諦めてアカペラライブ終了!
久しぶりの満員のお客さんの前で、張り切り過ぎて過呼吸気味になったのかもしれない。。
今にも倒れるかもしれないと・・覚悟しなくちゃならないのは、忠史さん本人だけじゃない。
ライブ主催関係者全てに心配されることになり、、ハラハラしながらも、一曲出来なかったとは言え、何とか、自分のライブの出演をやり遂げた忠史さん。よく頑張って持ちこたえたと思います。
肺炎になっても、どんな状態でも1000日ライブをやり遂げてきた忠史さんだからこそなせる事。。
体調悪いながらも、魂のこもった命懸けのライブは凄みさえ感じ、多くの人の心を揺さぶり、励まされたと、、ライブ終了後のCDは、「ベストミックス」と「ありがとう」合計25枚もライブのお客さんが購入してくださいました。
忠史さんの難病・脊髄小脳変性症の病気は、運動機能を司る小脳が委縮して、脳からの神経伝達細胞を徐々に破壊して動かなくしていく進行性の難病で、進行度合いも人それぞれで、いつどこで何が動かなくなるかも医者でさえよく分かっていない治療法も解明出来ていない難病です。
忠史さん、半年前は、それほど難病であることが見た目にはあまりわかりませんでしたが、この半年で、随分進行したように思います。より、病人らしく、障がい者らしくなったとも言えます。
でも、本人は唄うことも歩く事も諦めていません。今ならまだ唄える!杖をつきながらもまだ歩ける。まだ大きな声も出る。生きるのが必死な分、命のメッセージを伝えられる。
ライブ告知の中日新聞・浜松遠州版の記事に「闘病シンガー」と書かれていました。
難病と共生しながら命懸けでこれからも歌い続ける。忠史さんのスタンスは何ら変わりはない。
応援する立場で、これからもライブを取り組んでください!と言いたいが、忠史さんのこの状況を理解し、どんな状況でも受け入れられる、ありのままの忠史さんと付き合える人でないと、今後のライブは難しいのかもしれません。応援する立場なのに、こんな事かいていいものか。。
そんな事を考え始めたら、文章をどう書いていいのか考えがまとまらなくなり、実にサポートクラブのページも半月以上も記事を書けないでいました。こんな事、初めてです。
まだ暗い、早朝4:30過ぎには起きて7:00から5時間。休憩無しの立ち仕事の疲れと、冷えた肉を触り続ける冷えからくる不調で、家に戻るとコタツに潜り込まないと身体が冷え切っていて寒くてしょうがない。体力も落ちているのか、情けないが、暫くパソコンに向かえない自分がいました。
プロの音楽活動、高橋忠史、歌手デビューから40年。あくまでもプロアーティストとしてこだわって生きてきた忠史さん。音楽にもライブのお喋りにもメッセージ性を持っていることが、メジャーな世界では煙たがられ、独自の自分なりの道を突き進んでライブ活動してきたのです。
そんな忠史さんが、影法師の作った「花は咲けども」の新たなる曲を依頼され、歌詞を見た時に、忠史さんは「こんな歌詞、自分には作れない!」と。。自分が作る歌詞には責任を持たねばならないが、他人が作った歌詞なら、気軽に作曲ができると・・。もう少し元気なイメージの曲と依頼されてすぐに忠史流の曲が完成。原曲を聴かないで作られた、もうひとつの「花は咲けども」・・。御蔵入りするかもしれない曲でしたが・・。曲が違っても、歌詞が伝われば問題ないでしょう?せっかく作った曲を、忠史さんが唄えるようにならないものかと・・私から影法師の遠藤さんに直訴して快諾していただき、影法師の「花は咲けどもプロジェクト」のYouTubeに一緒にアップしていただきました。その縁で繋がった影法師の方々は、山形に忠史さんがライブに行った際に、農繁期にも関わらず、わざわざライブにも駆けつけてくださいました。
ボーカルの横澤さんは、顔面神経痛の後遺症が多少あり、治らない病気の恐怖に苦しむ忠史さんに親近感を持たれているようでした。
浜松の大昌寺のご住職が、音楽好きで影法師をご存知で、わざわざ遠くまでライブを聴きに行かれていたとは・・。ずっと、忠史さんの事も、影法師の事も応援してFBに私が記事を載せているのを、ぼちぼちのママさん・山中さんがご覧になっていて、ご住職に、忠史さんとの「花は咲けども」繋がりを知らせてくださったようです。
影法師は、農業に従事しながらのアマチュア歌手生活40年。決してプロにはならないこだわりのアマチュアグループ!東北から物申す!東北農業現場からのメッセージを歌にして、節をつけて世に伝えているグループ。両者とも40年の歴史!プロとアマチュアの違いはあれど、拘りは近いものがあるようにさえ感じます。
浜松、初登場の、影法師大昌寺ライブ!中日新聞・浜松遠州版の詳しい説明もあり、フクシマ原発の現状と「花は咲けども」や、農家の現状をあからさまにコミカルに唄う影法師の歌は、満員のお客さんに受け入れられ、ライブ終了後の「鄙の影法師」の日本酒はあっという間に売れて、並べたCDも足りなくなり、追加を車まで取りに行く嬉しいハプニングもありました。
CDなどの販売は、ご住職の息子さん、副住職が担当してやってくださいました。
ライブ終了後に、檀家さんが作ってくださった料理で打ち上げがあり、あちこちで話しても話し足りない人達同士が12時位までそれぞれ話し込んでしまいました。
体調が悪かった忠史さんも、打ち上げの頃には少し落ち着き、入れ替わり、懐かしい面々が話しかけてきたり、マッサージしに来てくれたりして・・打ち上げも最後まで付き合いました。
浜松のライブが終わったら当分ライブは無さそうだと思っていたら、大昌寺ライブに来てくださったフアンの方がどうやら再びライブを取り組んでくださるようで・・有難いことです。
男性陣はお寺に宿泊。私は、ぼちぼちのママさん・山中さん宅へ宿泊。夜中の交流がこちらでも!夜遅くまで話は尽きない。がん闘病の話や人工膀胱の話など・・度重なる手術で身体切り刻んでも命果てるまで人生を楽しむ心を失わない、本当にたくましい心の持ち主。
忠史さんの歌う「ワッハッハ」の精神。人生笑顔を絶やさない事が大事と実践されている方です。
浜松からの戻りは、京都経由。東海道線の各駅で、忠史さんが歩き旅で向かうはずだったルートを辿るように移動。忠史さんは、体調不良で浜松から東京へ戻ったが、ライブの記憶がある心で通っただけ。京都では、「銀の雪」の歌の舞台となった「哲学の道」を歩きました。
私が行ったからとて、忠史さんの想いが届けられる訳ではないが、忠史さんゆかりの地をゆく旅となりました。






















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高橋忠史・・福井県美浜ライブ・・一泊2日の旅とサポートクラブ日記・・美浜の奇跡! [サポートクラブ日記]

パート勤務の立場となった今、稼働日数を減らすのは、収入減に直接繋がるため、仕事を半日終えてからの出発をしても、夕方着く!それなら、一泊2日で行ける!主催=高橋忠史を支える仲間達のネーミングに誘われて、参加することにしました。誰よりも遠くから、誰よりも交通費かけても行く価値がある生ライブ!行かなかったら後悔しそうだが、行って後悔することは無いと信じて・・。

最近、サポートクラブのページを見て、アクセスして、コメントメールや、電話をわざわざ私にかけてきて、一度じっくりお話したいと言われていた宇都宮さんが、忠史さんとの関係でFB繋がりとはいえ、初対面の私を美浜の駅までお迎えに来てくれて、宿まで連れて行ってくれました。

宿に着くと、先に着いていた西宮市から参加の81歳の追っかけおばさまの内藤さんが、今度、茨城県日立市でライブしてくれる元日立労音OB会の方とライブの追っかけ話をしていました。

忠史さんは風邪も完治していなかったのもあり、部屋でギリギリまで寝ていました。

休んでいた忠史さんを松井さんが起こしに来て、宿を5時過ぎに出発し、直接会場へ!

私たちはラーメン屋さんで食事してから会場へ!

生涯学習センター「なびあす」は、新しい綺麗な会場で、都合よく仕切れるような多目的ホールでした。

ライブ映像を録画するので、左側の一番前を陣取り、受付にはサポートクラブで作ってきた高橋忠史プロフィール50枚を配っていただくよう預けました。

リハーサルが始まり・・時間が進むと共に、何度か美浜でライブをやっている関係で、お久しぶりの再会の人達が集まり始め、それぞれ忠史さんにご挨拶・・。○○年ぶりかな?・・

隣に座った方は、城戸さんですか?FB見ていますよ・・。姫路の方でした。

ライブは、決して体調万全ではなく、どこかいつも調子が悪い忠史さんですが、ライブをしているうちに徐々に元気を取り戻していきます。忠史さんは、あまり風邪薬など飲まないで寝て自然治癒力で治してしまいます。気持ちも体も熱くなるライブが一番の妙薬なのは間違いありません。

続々と人が入り始め、用意した椅子が足りなそうになり、横と後ろに椅子を追加・・。始まる頃には約50人ほどに。。

ライブが始まり、新曲を中心にipadminiで録画・・途中ストレージが足りなくて、後半はスマホで録画しました。

今回は広島の福山から、兵庫県西宮市から、姫路から、名古屋から、日立のOB会の人、そして現地美浜の方々・・。

高橋忠史を支える仲間達が、見事に集まりました。これは、忠史さんが病気になったお蔭?で熱い想いのフアンが行動を起こした美浜の奇跡です。美浜で交通費を自腹きってでも高橋忠史ライブをしようと、腹をくくって今の高橋忠史を支えようと考えた美浜の仲間たちの想いが、全国のフアンを動かし始めたのです。

忠史さんはお陰様で風邪も吹き飛び、元気になったようです。高橋忠史の特効薬はライブです。

このライブの後に・・メールが一通!・・東京新宿での新たなライブ話も決まりそうです。


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高橋忠史サポートクラブとして・・一人から始めたことですが・・複数の人が参加するようになり、奈良の歩き旅同行から仲間意識が芽生えた [サポートクラブ日記]

音楽の森の泉・高橋忠史サポートクラブと称し、シンガーソングライター高橋忠史さんを応援し、支援している人達とも繋がり、一人から始めたこの活動は、今までなかった、高橋忠史フアンの横の繋がりと、連携して情報発信することで、忠史さんの音楽活動を、少しでもサポート出来ればと活動し始め、ほぼ1年が過ぎました。
「音楽の森」と最初にわざわざ付けたのは、忠史さんのHPとブログが「音楽の森」だからです。検索しても近くに表示されますし、本人のページが「森」なら、サポートクラブのページは、「森の泉」。メジャーじゃないが、忠史さんを知っている人、関わりを持った人は、長年歩き旅などをしていたから、数知れず居るはずで、呼びかければ、思い出して湧いたようにフアンが出現してくる。高橋忠史のフアンは、湧いて出てくるイメージをして、「泉」を付け加えたのです。単なるフアンクラブではなく、サポートクラブとして、本人とも連絡を取り、状況把握をして、皆さんに伝えるようにしました。可能なら仕事も作る。そんな発信の仕方をしていて、FBページを作り、そのページの管理者をマネージャーとも呼ぶことから、ボランティアマネージャーとも称しました。忠史さんの状況を聴き、スケジュールが抜けないよう確認し、何をしているのか把握して皆に知らせること。
労音の活動で、コンサートスタッフの経験はあるものの、プロの芸能プロダクションのマネージャーではないため、応援や宣伝はしたとしても、仕事を作るまでは中々至らず。そういうプロの目で見たら、私では役不足・・役立たずのマネージャーでしかありません。プロのマネージャーなら、二人分の収入を得られるだけの仕事を取れなければ、お互いの生活が成り立ちません。まだまだお互いに遠慮もあります。用事がないと連絡も会うこともできませんし、仕事を作らなかったら、ライブすら聴けません。
忠史さんのFBの繋がっている人とも繋がりまくり、何か月もブログも書かず状況を知らせず、音信不通になってどこかで倒れているんじゃないかと心配する人達に、現況を知らせることで安心してもらい、忠史さんの事を思い出してもらうこと。また、忠史さんのライブの様子の写真や映像で、元気な様子を伝え、記事を書いて話題にしてもらう。応援してくれる分だけ、居ないよりはマシ!という程度の存在なのかもしれません。
そんな、サポートクラブのFBページも、本人は、あまり見てもいないようです。
成りすましの様に、私が電話して本人から聞いた話を、書いて知らせているだけですから。
そんなサポートクラブですが、奈良・東大寺への歩き旅再開の頃から、何人か、協力してくれるようになり、サポートクラブという名前があることによって、参加型のコミニュティ―として機能し始め、こうした方がいいとか、あの店でライブが出来ない物か一緒に下見に行こうとか、ラジオ出演の交渉など出来始めました。
横の繋がりが出来始めました。それぞれが出来る事、やってみたらどうかと提案したことを採用し、実現していくことで、参加して共有する喜びや楽しさを得たようです。奈良の歩き旅は、宿こそ別々でしたが、忠史さんの歩き旅の最後の到達点を見届ける喜びを分かち合い、一緒に歩き、一緒の時間を過ごして心情的には近しい仲間関係を作りました。サポートクラブが、ひとりではなく複数になったことを象徴する、東大寺前の記念撮影は、誰一人欠けてもいけなかった感じがしました。今では、皆、FB飲み友達でもあります。
そんな、喜びを共有できる仲間関係が出来たことは私にとっても嬉しいことでした。








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還暦ウォーキングライブツアーを終えて・・その2 [サポートクラブ日記]

このライブツアーの出発に際し、準備段階で、高橋直人君、西東京ラジオの前川実紀さん、澤山休さん。ならどっとFMの福森ひとみさん、浜松のフリーアナウンサー新井真奈美さんを通じて、鈴木裕子さん、Cafeツールボックスのマスターの小山さんなどなど・・。
最初は、私一人から思い付きで始めたひとりよがりなサポートクラブでしたが、色々相談を持ちかけていくうちに、こういうことなら協力できるということがそれぞれの方々に生まれ始めたようでした。何か協力できた後の充実感や高橋忠史の歩き旅への関心も高まり、旅の最後には、カメラマンの岡部直実さんやプロジェクトセブンの伊藤さん含め、奈良の東大寺に集結!皆さんと共に高橋忠史の東大寺到着を共に祝い、一緒に写真を撮ったり、喜び合うことが出来ました。旅に同行すると、忠史さんのブログ日記に名前が登場したりするのも、ちょっと嬉しかったり、いろんな方々が関わってこの旅が成り立っていて、高橋忠史が歩くだけの旅でもなく、私が関わっただけの事でもなく、旅の到着のゴールはみんなの到達点を確認できるものとなっていました。それを、自分が現地に行き、一緒にその場に居てゴールを見届けたい仲間意識が生まれ、FBだけの繋がりの人とも実際に会えて、交流出来たり、忠史さん繋がりから出来た縁ですが、この中の誰一人欠けてはならないストーリーが、そこにあったような気さえしました。
ブログを追って毎日見て下さった方々も、到着日が近づくにつれ沢山の数となり、自分一人から始めた事の広がりを確認出来てこんな嬉しいことはありませんでした。始めた頃は、一人の力は本当に小さいと思い知らされていましたが、複数になる事で、何か出来そうな大きな力を感じることが出来ました。
また、旅の途中から登場した、忠史さんとは古い付き合いの、峠さんはじめ、山添村青年団の皆様や、奈良の岡村猛さん。また、浜松でお世話になったぼちぼちの山中恵美子さん。多くの忠史さんに関わりあいのある方々と、実際に出会うことが出来ました。
高橋忠史自身が昨年3日で歩き旅を断念して、心身ともにボロボロの状態で立ち寄ったところが山中さんのお店「ぼちぼち」でした。旅で持ち歩いていた大きいのぼり旗を、長い事1年近くお店に預けたままでした。昨年のその時の様子を話してくれました。雨降る中、びしょ濡れになり、助けを求めて倒れこむように来た忠史さんを暫く店で寝かせ、旅はもうやめな!と説得したと・・・。大きい旗は強風にあおられ危ない目にあったり、体調が悪くなり動けなくなくなり度々うずくまりながらもやっとバス停までたどり着きバスで浜松駅へ・・浜松駅から近い「ぼちぼち」に寄って旗を持って歩くのもつらいので、そのまま暫く預かってもらったとの事でした。そのあと、車に戻り、旅は中断したまま体調が良くないままの状況で動けないお金も底をついているという忠史さんと私はフェィスブックのコメントで連絡してその状況を知り、その後、救世主女神のごとく助けることになり・・千葉方面で仕事を作れる人を紹介するからと東京で再会する方向になりました。
浜松の呑み処「ぼちぼち」のママさんである、山中さんは、何度も手術し、癌と闘いながらもたくましく生きている、人懐っこいとても明るい素敵な女性でした。忠史さんが私を連れて行って紹介しようとした人。前回浜松の出発前の日に一緒に行ったけど定休日で会えなかったので、どうしても会いたかったのです。忠史さんが誰かを私に会わせたいと紹介しようとするのは珍しいことで、長年のフアンでもあり、千葉のバッカスライブやステンドグラス夢工房でライブを企画して下さっている浜田さんを昨年紹介されてから二人目でした。
本当に、忠史さんの向こう側には、沢山の魅力的な人たちが存在しました。
今までやってなかった本人以外からの高橋忠史の情報共有&発信。旅から旅へと目の前から居なくなった途端に縁がきれ、忘れられるのではもったいない。どうしているか、気にしてくれている人は結構存在しています。たまに行っても思い出してもらえるように、発信して記事書いているのも、少しは意味がありそうです。

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高橋忠史・還暦ウォーキングライブツアー無事完歩し、終了しました。 [サポートクラブ日記]

高橋忠史・サポートクラブを作って、ほぼ1年。単に、フェイスブックページにいいね!をするだけで繋がれているので、自分がサポートクラブの一員である。と認識している人は、ライブの主催や応援に動いた人くらいしか自覚が無いかもしれません。そんなゆるい繋がりの中からも、昔懐かしい忠史さんに関わってきた人達とも繋がり、コメントやり取りしたりしながら交流を深めてきました。5月末に100を超え、旅のクライマックスあたりに135という数字。インサイトを見ると、記事の瞬間最大アクセスが11476という数字。山添青年団がブログ記事に登場したあたりの数です。単に、忠史さんのブログ記事を中心にフェイスブック、ツイッター、ネット広告も少し使い拡散していたのですが、無名の私の記事を見ている人が増え、今や個人ページの方は、294の方と繋がっています。ブログ記事を書くたびに発信していたので、一日に何回もページを開く。同じ人が、何回もアクセスしている・・この後どうなったか気になりまた開く。一日1回でもいいものを、記事を追っかけさせるためにわざと細かく更新したのは、リアルタイム情報を発信し続けるためです。
山添青年団の峠さんとは、昨年10月にフェィスブックで忠史さんと繋がり、こちらの発信する記事を見てくれていました。5/17今回の旅が始まり5/19に峠さんは自身のフェィスブックで、山添青年団が機能しているか仲間に確認している記事にミニコンサートでもできないものか打診していました。その記事にいいね!をしました。それから時は過ぎ5/31四日市に到着したあたりで、その後のコースを伺いながらも、山添村に寄れないかという内容のメッセージが入り、すぐ忠史さんへ連絡しました。具体的なライブの意向を伝えてきた夜遅い初めてのメッセージに夜中の電話。忠史さんからは、峠さんの連絡先がわからないと言われ、フェィスブックは、ページを開いているのがわかるので、まだ起きているからフェイスブックで簡単なコメント入れれば相手が反応するのがわかりますからと!。峠さんにはフェイスブックでなくメールにして下さいとコメント入れて、無事連絡取り合うことができました。6/5のライブが決まり、6/3に、山添村の3人が実際に忠史さんに打ち合わせ兼ねてわざわざ居所探し、会いに行ってくれています。
また、奈良の岡村さんには、忠史さんの方から、到着日前日ライブを設定してほしいと依頼して生駒ライブが企画されました。私も奈良入り前日する予定でしたので、参加する意向を伝え、会場決まった連絡は6/2でした。実際にお会いできるのを楽しみにしていました。忠史さんが道に迷って中々会場にたどり着かないので探しに出かけたり、ライブ会場の駅からの道も丁寧に○○の建物を右へとか迷わないような案内をつけてメールしてくれていたり、面倒見の良い方でした。こういう人たちに忠史さんは支えられてきたんだと、改めて忠史さんの先にいる素敵な方々の存在を確認できた旅でした。
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高橋忠史サポートクラブのページにいいね!の数が、一昨日100を超え昨日はいきなり117まで。。拡げると湧き出すように現れる高橋忠史フアンの方々。 [サポートクラブ日記]

高橋忠史さんの応援をすべく、ボランティアマネージャーをし始め、フェイスブックページを作り、ページにいいね!が100までは結構時間がかかりました。忠史さんの宣伝をすればするほど、忠史さんのフアンにたどり着く。きっと、私の事は知らなくても、それぞれ、自分の方が忠史さんとは長い付き合いだとか、昔から知っているとか・・どんだけ世話したことかとか・・思われる人も多いでしょう。付き合いの深い人は全国に散らばっています。そう、散らばっている人達に会いに行く忠史さんですが、人の名前と顔が一致しない・・覚えていない・・???・・思い出せない・・。。いつ何のときにどこで??・・誰でしたっけ?・・散々お世話になった人だというのに、名前が思い出せない・・どこでどういう事でかかわっていたかを、話しているうちに、やっと思い出してくるなど・・。最近、ブラッドピット氏の相貌失認の症状の記事が話題を呼んでいるが、高橋忠史さんもそれに近いものがあります。数限りない人達と出会い、散々お世話になったあげく、たまに電話やメールをしても、思い出してもらえない!どこでお会いしましたっけ??なんて、失礼な人なんだろう。。自分はそんな程度の関係だったのかと、深いかかわりを持っていた人ほど、ショックを受け、人によっては傷ついて去ってしまう。数多くの人に会い過ぎて、覚える容量を超えてしまっているのかもしれませんが、忠史さん本人は悪気は無いのです。そして、自分から中々、お願いします!と人に頭を下げるのが苦手で、困っていてもギリギリまで我慢する性質。昨年は、体調も悪かったこともあるが、ミックスダウン・・音作りに夢中になりすぎて、ライブの宣伝もあまり出来ず、ライブ仕事はかなり減っていました。忠史さんと再会のきっかけになったのは、フェィスブック。まだ、登録しただけで、ほとんど見ていないこ事が多く、コメントに気が付くまで3か月ほどかかり、コメント返事が来ても・・どこでお会いしましたっけ?・・私もそう言われた一人。私のことなど覚えていなくてもしょうがないほど、目立つ印象的な存在では無いのは、私の方もわかっていたので、思い出すまで、印象的なイベントの話や、写真を送って、やっと思い出してもらいました。会社の上司がやっているイベントに!と紹介し、東京には忠史さんの家族もいます。療養しながらもたまにライブをやっていました。体調が悪くてもどんな状態でもライブをやってきた1000日ライブなど・・本人は頑張ったであろうが、聞く人にはあまり関係ない事。よく忠史さんを知っている所ならなら支障ないかもしれないが・・始めて行ったイベント会場で、誰にも言わず突然居なくなり・・車で寝ている・・など、知らない人にとっては考えられない事を平気でしてしまう忠史さんに・・一般の人の目がある所では、してはいけない!と・・。些細なことのようでも、実際に重要人物に紹介したかったのにその場に居なくて紹介できなかったなど・・支障があることがあり、イベントに出来るだけ付いて行って忠史さんの行動を見張っているようになり、感じたことは忠史さんに言ってきました。人の間に入りフォローした方がいいと思ったのもそういう事がきっかけです。忠史さんとの信頼関係を作ることにも時間をかけ、何度も言われました、忠史さん本人から、自分に関わってもつらい想いをするだけ。嫌なら無理してやってもらわなくてもいい・・ボランティアマネージャー。お金を出すことはあっても、忠史さんから雇われている訳じゃない、押しかけマネージャーです。私も年下にもかかわらず、思いこんだらかなりはっきり言うので、生意気な女だと思っているでしょう。私は、元気に唄う忠史さんに会いたいだけ。私が知っている高橋忠史さんは、近寄りがたいほどギラギラしていた30代後半~40代。まだ、ギタリスト日高靖志さんと一緒に活動していた頃のこと。それなりに古いとはいえ、それより古い付き合いの人は沢山いるでしょう。それほど深い付き合いは無かった関係から、この一年で、こういう事をすることにして、忠史さんのフアンと繋がり、情報発信するようになり、可能ならライブ会場にも行く。フェィスブックは実名で登録していて、顔写真も見れることが多い。忠史さんの記憶を呼び戻すのに、顔写真は結構効果的!あまり使ってなかったフェィスブックを、もっと活用した方がいいと勧めたのは私です。前にも記事を書いたが、シュガーマンの映画になった、70年代前半、アメリカのシンガーソングライターロドリゲスの話を知っていますか?スラム街などの事を唄うメッセージソング、一枚のCDからコピーされた歌が、アパルトヘイトの低層労働者たちを励まし、アパルトヘイト政策解除の原動力にもなったと言われている。意味のあるメッセージソングばかりなのでアメリカでは売れなかったが、心に響く歌を唄う。コアな熱心なフアンが、そのシンガーソングライターの所在を探し出し、表舞台に引っ張り出すというドキュメンタリー物語です。映画を見た印象は、やはり高橋忠史さんを思い出す。還暦を過ぎて、いまだ音楽を諦めず追求している高橋忠史さんは、日本のロドリゲス的存在。アルバムフアンも多い。フアンの熱意によってこそ、表舞台に引っ張り出せるシンガーソングライター。それだけのフアンがいるはず。いまだ唄い続けています、今一度、高橋忠史さんを応援して下さい。音楽でしか生きていけない男は、自分の音楽でフアンに救われることでしょう。
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5/16~5/17浜松へ忠史さんの歩き旅の見送りに行ってきました。その2 [サポートクラブ日記]

17日、ホテルで朝食を済ませ、戻りが何時になるかわからないので、一緒に出かけることにして、チェックアウトし、駅の駐車場から、車で寸座の縣さん宅へ向かいました。留守でも車を置かせてもらえると、置きに行ったら、留守を守るきれいな飼い犬に吠えられました。奥浜名湖のほとり、景色のいい所です。寸座の駅で電車に乗り、しばし、浜名湖を眺めながらローカル線、天浜線を楽しむ。西鹿島で、遠州鉄道に乗り換え、浜松に戻りました。浜松に戻ってもやることが・・。まずは、楽譜を探しに2軒ほど行ったが欲しいものは見つからず、諦めてネットで探すことにして、昼食。お昼はB級グルメでも有名になった浜松餃子定食。食事を済ませてやっと、出発地点に向かうバスに乗る。バスは15番乗り場から、どれに乗っても着くと、前日に私が調べておいた。バスに乗ってしばらく行くと、忠史さんが昨年、旅の途中で具合悪くなり、2時間も動けなかった場所を指さして教えてくれた。それからバス停3つ4つ先まで歩いた距離に、本人がびっくりしていた。昨年、雨にぬれ体も冷え、胃も痛くて動けなくなった。銭取バス停まで相当の距離を歩いて寒さに耐えバスを待ったリアルな記憶。リベンジの再出発。到着して一服していると、すぐ、望遠カメラを視線の先に見つけ、あっ。。岡部さん?!朝から何時間も待機していた岡部さん、こっそり撮るはずがあっという間に見つかってしまいました。忠史さんには内緒で現地入りし、いつかいつかと、私には何度もメール来ましたが、岡部さん待っているとも言えず、状況を何度かメールしてました。岡部さんが、足骨折治療中にもかかわらず、一緒に歩ける所まで歩くと言いだし、私は、その場を去りがたくなり、つい、一緒に歩き出しました。歩くつもりが無かったので靴も歩く靴でないし、荷物もある。忠史さんは、どんどん歩いているうちにスピードが増していく。岡部さんが足が完治していないのを思い出し、途中からバスで先に行き、待ち伏せしてはまた少し歩き、またバスに乗る事3回、それでも、かなりの距離を歩きました。途中、高橋君から電話が入ったり、フェイスブックを見ている人からコメントが入ったりしました。忠史さんの歩いた距離は約10キロ。私が歩いたのは1/3位でしょうが、一緒に歩きました。姫街道歴史的史跡が点々とある、旧街道。夕方、日が陰った頃に、細江町に入り、川を渡り、この日の目的地、気賀駅に着きました。今日はここまで歩けばOK!あとは、電車か、車で迎えに来てもらうか・・。気賀駅から、浜松まで、岡部さんとバスで二人帰ることにして、忠史さんと別れました。また、ゴールには行くから!岡部さんもゴールに向かうそうな。浜松に着いて、まだ、岡部さん浜松餃子を食べていないとなり、昼行ったお店へ再び行き、夕飯を食べに・・。今度はチャーハンにしました。歩いた後でしたので、おなかもすいていて特に美味しく食べられました。そのあとは、自由席と、指定席、別々の電車でしたので、私は、先にひかりの自由席で帰りました。結局、一日、忠史さんに付き合ってしまいました。出発地点に、岡部さんが現れて、忠史さんも気分が盛り上がって頑張って歩けたようです。ひとりじゃ今日、ここまで歩けてないと言われました。
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5/16~5/17浜松へ、忠史さんの歩き旅の見送りに行ってきました。その1 [サポートクラブ日記]

5/16夕方、浜松FMのラジオ放送の生出演の予定を入れていました。韓国打楽器アーティストのリ・チャンソプさんのライブの打ち上げの席で、たった一度しかお会いしていない、新井さんという浜松の方で、ジュビロ磐田の放送に関わっているアナウンサーの方と、フェィスブックで、細々と繋がっていました。その関係を頼って、ラジオの放送で、ウォーキングライブツアーの告知を出来ないかお願いしましたが、自分の担当する番組では無理となり、新井さんは、お友達のアナウンサーを紹介してくれました。そして、鈴木さんを紹介してくださいましたので、新井さんのフェィスブック繋がりから鈴木さんを見つけ出し、早速繋がりお願いしましたら、統括部長まで話してくれていて、資料を送るよう指示がありました。一筆書き、CDと資料を送りました。着くとすぐ電話が入り、ラジオの生出演が出来るか聞かれ、即答でお願いします!と、出発日の前日にすることにしました。時間は10分程度。有難い。後で、忠史さんに言うと、あ~その人社長!その後、忠史さんとは、お知り合いだったことが判明!電話番号まで知っている。昔ラジオによく出演していて、何度もスタジオにも行ったことがあると言う。。何だ―お知り合いでしたか。。って感じ。。私が人づてにやっとたどり着いたのは忠史さんのお知り合い。。でも、出演を段取りしたのは私だから、私も行くべきでしょう。何より、時間通りに忠史さんが来れるのか、いつものごとくひやひやしながら待つことに!5時ごろに待ち合わせしたのに、来たのは6時近かった。忠史さん、時間より遅れて来がちなので、正確な打ち合わせ時間より早くサバよんで時間を待ち合わせる。この日も、車を置いてくる時間が無くなったと大阪から直に来ることになり、車でした。5時ごろまだ車だと電話が来たが、出演時間が、1時間遅れに変更なったことも、はっきり告げてなかったのが幸いし、時間に間に合って入れました。鈴木さんは、磐田の国分寺がある方に住んでいる方で、地元のローカルな話ができました。放送終了後、ホテルにチェックインし車を移動し、夕食・・と浜松の繁華街の方を歩きました。酒も飲まないし、安くファミレスで済まそうと、サイゼリアに入り食事をしてたら、気がつけば周りが若い中学か高校生ばかりの若者だらけで、中年のおじさんオバサンは自分たちだけだと二人で顔を見合わせておかしくなって笑いました。!その後、ホテルの部屋に戻り、もう少し話すことにし、最近の忠史さんの心境の変化について聞くと、きっと、先の事が少し見えてきたのがあるのだという。奥さんのパート勤めが定年になること。一緒に暮らせることが、現実的になってきたこと。少し先のことが見えるようになり、励みになっているようです。翌日、出発日だが、出発前に色々やりたいことがある忠史さん。車を先に置きに行き、戻らねばならない。朝食食べたら、出かけることに予定しました。
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